喧嘩ばかりで何かと合わない部分が多い夫婦。それが私たちです。
一度の喧嘩は余裕の3時間超え、それを一日に3セットもこなしていた時期は、ストレスが溜まり過ぎてもはや自分が何を感じているのか分からなかったです。
何も考えたくなくて、イヤホンを装着して音楽を大音量で聞いたり、暴食したり、お酒を飲みすぎたり、一日ほぼベッドのなかで過ごしたり、衝動買いをしたり…。あの頃は時間とお金を無駄遣いしまくったものです。
私たちって一緒にいる限り、一生こんな感じなのかな…と絶望していた頃をお話したいと思います。
離れればいいのに、なぜかぶつかり合う私たち
喧嘩ばかりの毎日で別れたほうがいいのかな…と考えたことは何度もあります。
でも、喧嘩が一番ひどかった頃は、別れる選択肢を検討することはほとんどなかったんじゃないかなと記憶しています。
それはきっと、別れたくないという意思があったからではなく、喧嘩でエネルギーを消耗しすぎて何も考えられない状態だったからだと思います。
感情的にギャー!となって数時間も罵り合い、ヘトヘトに疲れたら夫が思ってもいない謝罪をし、一旦その場は終わり。
でも謝罪は形だけなので再び同じネタで衝突する…という感じでした。
怒りを表現することは大切だと思っていた
私は(恐らく夫も)、怒りという感情を出せる相手がいることは幸せなことなんだと思っていました。
怒りは人間にとって大切な感情のひとつなんだ…と。
私たちにとって問題なのは、合わない部分が多すぎることであると思い込んでいました。
でも、今ならそれが大間違いだと分かります。
私たちは今でも合わない夫婦です。でも喧嘩は激減しました。
なぜなら、怒りになる前に、怒りに繋がらないように、お互いの気持ちを伝え合おうという努力できるようになったからです。
怒りは確かに大切な感情です。
怒りが湧くということは、自分にとって大切なことを守りたいという強い気持ちがあるから、それだけ本気だからだと思います。
しかし私たちの喧嘩は、そういう根本的な部分に基づいたものではありませんでした。
話を聞いてもいないのに相手が間違っているという前提で言葉を選び、理解できる部分を探そうともせず、悲しみや悔しさをただ相手にぶつけるだけ。お互いの存在は感情をぶつけるサンドバッグでしかありませんでした。
そんななかでも私は「大切な人にこそ怒りは伝えるものだ」と思っていたり、彼は「怒りをぶつけられる相手が私しかいない」と思っていました。
ただのサンドバッグだったことには、長らく気づきませんでした。
絶望をごまかす日々
「こいつには何を言っても無駄!」「どうしてここまで傷つけられる必要があったのか…」「私だけ(俺だけ)頑張っても何も変わらない」
怒りや悲しみが噴火した後に無気力になる…を繰り返した私たちの心はボロボロでした。
将来はおろか、明日のことすら考えられませんでした。
私たちはどんどん大きくなっていく絶望感を忘れようと、今この瞬間の「楽」を求めて時間とお金を浪費していました。
とくに時間の無駄遣いは半端ではなかったです。
目が覚めても目が覚めても目をつむって必死に眠り、絶望感から逃げました。
単純なパズルゲームを5時間も6時間もぼんやりやっていたこともあります。
向き合おうとはせず、ごまかそうとばかりしていた私は、今思えば軽いうつ状態に入っていたと思います。
彼もきっと同じような精神状態だったでしょう。
なぜ離れることができなかったのか
喧嘩ばかりで何から何まで合わないと思っていたのに、私たちは離れる選択をしませんでした。
別れるまでいかなくとも、実家に帰るとか、家庭内別居のようなことはできたはずです。
なぜそうしなかったのかは、今でもよく分かりません。
絶望感で気力がなかったのかもしれないし、離れたら本当に終わってしまうと思っていたのかもしれないし、怒りをぶつける相手が必要だと思っていたのかもしれません。
まとめ
喧嘩ばかりの日々は卒業した私たちですが、今でも合わない夫婦だという認識は変わりません。
それでも、毎日楽しく過ごせるようになりました。
怒りという感情は人間にとって必要不可欠なものですが、ぶつけるものではありません。
これからも感情との付き合い方を模索しながら、夫婦で頑張っていきたいです。
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